「親の口座が凍結されて葬儀代も払えない」というご相談

身内が亡くなったあと、銀行に死亡の連絡を入れると、その方の口座は「凍結」され、原則として遺産分割協議が終わるまで引き出せなくなります。

ところが葬儀費用、入院中の医療費の精算、当面の生活費など、待ったなしで支払いが必要なお金は次々に発生します。「親の口座にお金はあるのに、引き出せなくて困った」という声は、相続のご相談で本当によく耳にします。

こうした困りごとに対応するため、2019年7月に施行されたのが、預貯金の仮払い制度(民法909条の2) です。遺産分割協議が終わる前でも、相続人が単独で一定額まで預貯金を引き出せる仕組みです。


制度のあらまし

ポイントは大きく3つです。

1. 相続人が単独で請求できる

通常、相続人みんなで話し合って遺産分割協議書をまとめないと、預貯金は引き出せません。仮払い制度を使えば、他の相続人の同意がなくても、相続人ひとりで金融機関に請求できます。

2. 引き出せる金額には上限がある

無制限に引き出せるわけではありません。次の計算式と上限額の、いずれか低い方が限度です。

相続開始時の預貯金額 × 1/3 × 請求する相続人の法定相続分

ただし、同一の金融機関ごとに150万円が上限となります(民法909条の2、法務省令で定める額)。

たとえば、亡くなった父名義のA銀行に1,200万円の預金があり、相続人が母・子2人(うち1人が請求)の場合:

  • 1,200万円 × 1/3 × 1/4(子の法定相続分)= 100万円
  • 上限150万円以下なので、100万円まで請求可能

3. 引き出した分は「遺産の一部分割」として扱われる

仮払いで受け取った金額は、その相続人が遺産の一部を先に取得したものとみなされます(民法909条の2後段)。あとで遺産分割協議をするときに、すでに受け取った金額が考慮される仕組みです。


必要な書類

金融機関ごとに細部は異なりますが、おおむね次のような書類が求められます。

  • 亡くなった方の出生から死亡までの戸籍(または法定相続情報一覧図)
  • 相続人全員の戸籍謄本
  • 請求する相続人の印鑑証明書
  • 金融機関所定の請求書

戸籍を集める手間は通常の相続手続きと同じです。法定相続情報一覧図を法務局で取得しておくと、複数の金融機関で使い回せて便利です。


注意したい3つの落とし穴

① 相続放棄を考えている人は使ってはいけない

仮払いで預金を引き出して使ってしまうと、「相続財産の処分」とみなされて、単純承認したものと扱われる可能性があります(民法921条1号)。そうなると、もう相続放棄はできません。

借金や連帯保証など、亡くなった方にマイナス財産がありそうな場合、安易に仮払いを使うのは危険です。相続放棄の可能性が少しでもあるなら、仮払いを使う前に専門家にご確認ください。

② 葬儀費用に充てるなら、領収書を必ず保管

仮払い金を葬儀費用に使った場合、それが「相続人個人のために使ったお金」なのか「相続財産から払った費用」なのかで、後の遺産分割や相続税の計算に影響します。領収書・支払先・金額のメモは必ず残すようにしてください。

③ 上限を超える金額は家庭裁判所の手続きが別にある

150万円や計算上の上限を超えて引き出す必要がある場合は、家庭裁判所に「保全処分」(家事事件手続法200条3項)を申し立てる方法もあります。こちらは一定の必要性の疎明が要りますが、上限の縛りはありません。


まとめ

  • 預貯金の仮払い制度は、葬儀費用や当面の生活費を、相続人ひとりで引き出せる仕組み
  • 上限は 「預金額×1/3×法定相続分」かつ金融機関ごとに150万円
  • 引き出した分は遺産の一部を先に取得した扱い
  • 相続放棄を検討している場合は使ってはいけない
  • 領収書の保管を忘れずに

凍結された口座を前にして焦ってしまう前に、まずは制度の存在を知っておくだけでも、選択肢が広がります。


【さらに深掘り】相続放棄・単純承認との関係(不動産登記の視点から)

ご注意 以下は執筆時点(2026年4月)の法令・通達・実務運用に基づく一般的な解説です。個別事情により判断が分かれる論点を含みます。実務適用は最新情報と個別事情を踏まえ、専門家にご相談ください。

預貯金仮払い制度は預金の話ですが、登記実務の現場では「相続不動産の処分との関係で、後から問題になる」ケースに何度も遭遇します。

法定単純承認の落とし穴

民法921条1号は、相続人が相続財産の全部または一部を処分したときは、単純承認をしたものとみなす旨を定めています。仮払いで引き出した預金を「葬儀費用」ではなく「相続人個人の生活費」や「相続不動産の修繕費」として使ってしまった場合、これが「処分」と評価され、後から相続放棄ができなくなる、というリスクがあります。

判例上、亡くなった方の債務(葬儀費用等を含む)の弁済に充てた場合は処分にあたらないと解されています(最高裁判例の蓄積による実務運用)。逆に言えば、「何に使ったかを後から証明できないと危ない」のです。

相続不動産との連動

仮払いを受けたあとに「やはり負債が大きいので相続放棄したい」となっても、すでに相続不動産の名義変更登記(相続登記)まで進んでしまっていると、放棄の有効性自体が争われやすくなります。

実務では、相続放棄の可能性がゼロでないご相談では、

  1. まず家庭裁判所への相続放棄申述(民法915条1項、原則3か月)の検討
  2. その間、預貯金仮払いも、相続登記も、安易に進めない
  3. 葬儀費用は、できる限り喪主の自己資金や香典で立て替える

という順序を強くおすすめしています。

相続人申告登記との合わせ技

2024年4月から施行されている相続人申告登記(不動産登記法76条の3)は、相続放棄との両立がしやすい制度です。これは「自分が相続人であること」を登記簿に申し出るだけの仕組みで、所有権移転登記ではありません。

相続登記義務化(2024年4月施行)の3年期限が迫っている中で「放棄するか迷っている」という場合は、いったん相続人申告登記で登記の義務だけ果たしておき、相続放棄するかどうかは熟慮期間(民法915条1項、原則3か月)の中で判断する、という整理ができます。

ここで誤解されやすいのですが、相続放棄の3か月と、相続登記義務化の3年は別物です。相続放棄の判断は、亡くなったことと自分が相続人であることを知った日から原則3か月以内にしなければなりません。相続人申告登記を済ませても、この3か月の期限が延びるわけではありません。

3か月では判断材料が揃わないという場合は、家庭裁判所に熟慮期間の伸長(民法915条1項ただし書)を申し立てる方法があります。仮払い制度を使うかどうかも、この3か月の期限と伸長申立ての要否を意識しながら、並行して検討することになります。


【さらに深掘り】葬儀費用と相続税・所得税の取扱い(税務の視点から)

ご注意 以下は執筆時点(2026年4月)の法令・通達・実務運用に基づく一般的な解説です。個別事情により判断が分かれる論点を含みます。実務適用は最新情報と個別事情を踏まえ、専門家にご相談ください。

仮払い制度で引き出したお金を葬儀費用に充てる場面は多いですが、税務上の取扱いはやや複雑です。

葬儀費用は相続税の課税価格から控除できる

相続税法13条1項2号は、相続財産から差し引ける葬式費用を定めています。葬儀費用は、相続税申告の際に相続財産の課税価格から控除できます。

控除できる葬儀費用の範囲は、相続税法基本通達13-4・13-5に列挙されており、たとえば次のようなものです。

  • 葬式・通夜のために要した費用(飲食・会葬返礼品を含む)
  • 火葬・埋葬・納骨に要した費用
  • 死体の捜索・運搬費用
  • お寺へのお布施・戒名料

一方、香典返し・墓地の購入費・初七日・四十九日法要の費用は、原則として控除できません(同通達13-5)。

仮払金そのものは「課税上の収入」ではない

仮払いで受け取ったお金は、相続財産の一部を先に受け取っただけなので、所得税の課税対象にはなりません(贈与でも一時所得でもないため)。「仮払いを受けると税金がかかるのでは」と心配されるご相談がありますが、その点はご安心ください。

ただし、最終的な遺産分割協議で「結局その人は仮払い金以外に何も取得しない」となった場合でも、相続税の申告(基礎控除を超える場合)は必要です。

領収書の保管が税務でも効いてくる

葬儀費用控除を受けるには、支払先・金額・日付がわかる領収書やメモが必要です。お布施のように領収書が出ないものは、支払日・支払先・金額をメモで残しておきます(税務調査でも実務上認められる扱いです)。

仮払い制度を「葬儀費用のため」と説明して引き出したのであれば、なおさら領収書の管理は丁寧に行ってください。あとで「相続財産から葬儀費用として支出した」という流れを証明できるかどうかが、税務・遺産分割の両面で効いてきます。

多額の仮払いを受けた場合の注意

仮払い金額が大きく、その後の遺産分割で「他の相続人と取得バランスが取れない」となった場合、遺産分割のやり直しではなく代償金の支払いで調整するのが一般的です。代償金には贈与税の問題は生じませんが、不動産で代償する場合は譲渡所得課税が発生するなど、別の論点が出てきます。

このあたりは、相続税申告を依頼する税理士と早めに連携し、仮払いを受ける段階から「最終的な遺産分割の絵姿」を意識しておくのがおすすめです。